神社での参拝方法でお願いはどうするの?

文化・芸術

こんにちは!

神社での参拝方法でお願いはどうするのでしょうか?今回はこのことについて解説をしてみたいと思います。

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1.はじめに

神社を語る上で、アニミズムとしての神道はよく知られ、遥か古来からの日本の宗教と言われています。但し、それが日本独自のものであると断定して言えるか否かということに関しては、色々と意見が分かれるところがあるようです。

「神道は日本で発生したので、当たり前じゃないか。日本独自のものじゃないか。」と言う意見が存在してもそれは何ら可笑しな話でなく、当然でしょう。

しかしながら、やはりその内情を細かく見てしてみると、日本の独自の宗教と云えないような様子も多少あると云うことは、 海外から日本の土壌に文化が持ち込まれたと云うものは何も仏教のみに限らず、神社にもあるようです。

具体例を挙げるならば、朝鮮半島の、いわゆる王族の関係者が日本の昔の土地に渡ってきたと云う経緯もあるわけです。

2.神社は日本と関係あるものだけでない?

2-1.神社と海外から来た人物

そこでまず、海外から渡ってきた人物関係を祭神に充てた神社として有名な神社、新羅神社、高麗神社などが挙げられます。これらの神社は日本独自のと云うよりも、かつての朝鮮半島から朝鮮関係の王族に関する人物が古き日本の土地に訪れてきて、その後、日本のその該当場所で祀られたということになるかと思います。

そして、そこでの生活が根付いて神格化されて神社となって行ったと云う経緯があります。神社の形式としてはその一端として見られる神社建物の様子や周囲の雰囲気、特に祭祀関係の端々によく散見されるようです。建物や周囲の雰囲気から移築や改築が行われている場合が見て取れるようです。

また、工事などでよく変わってしまうことがあるので一概には言えませんが、祭祀などは比較的そのままの形式で残っていることがあるようです。一般的に見られる神社鳥居、手水社、社務所があって、更に進むと、拝殿、本殿があります。

2-2.神社と海外ゆかりの場所

そして、神社の多くは周囲が森林に囲まれている。このような状況や風景は変わらない場合が多いでしょうが、そこに祀られている神と云うものが日本と直接関係のある人物、つまり日本人ではない場合があります。それは、海外から渡来してきた人物を元に祀られていることを意味し、そのために創設された神社もあると云うことです。

例えば、前述した朝鮮半島と関係ある神社を改めてまとめてみると、その他の神社も含めて、いかのような神社が挙げられます。 百濟王神社(くだらおうじんじゃ)(大阪府枚方市)、新羅神社(しんらじんじゃ)(岐阜県多治見市)、または高麗神社(こまじんじゃ)(埼玉県日高市)は有名な神社です。

何れも、朝鮮半島と関連が有るのは、神社名からしてもすぐに察しがつくでしょう。

3.神社と朝鮮半島との関わり

3-1.神社と百濟方面

百濟王神社は、朝鮮半島の古代国家の一つ百濟(くだら)と関係が深い神社とされます。その百濟は、紀元660年に唐、新羅の連合軍に破れました。

その翌年には多数のその土地の人々が当時の日本列島に亡命しました。百濟王禅広(くだらのこにきしぜんこう)は当時日本に既に移動していたが、百濟を逃れて日本に来た百濟民達と一緒に日本の朝廷に仕えました。

当時辺りに氏寺として百濟寺、氏神の神社として百濟王神社が設立されました。この神社は今の百済王神社の前身が建立されたものと言われています。しかし、その身内の死により朝廷は百濟王の祀廟を建立させました。 この百濟王神社と祠廟の関係性はよく分かりませんが、江戸時代前半には百濟寺は既に廃寺となっていたようです。

百濟王神社はその後どうなったか詳しい状況は分かりません。 しかし、廃寺の関係から暫くは存続しつつも次第に衰退していった可能性があります。但し、この時点で、百濟王は日本のその土地の氏神になっていた様です。その後、百濟王とその縁者は一度相当の数が衰微していったようです。

後の時代、その土地に住む関係者が土地の氏神様として改めて再興し、氏子がその場所でご祭祀を行う様になり、現在に至るという説があるようです。尚、現在の百濟王神社に有る建築物は全部、江戸時代中期以後のものとされます。

商売繁盛祈願、事業成功祈願、家門繁栄祈願がよく効果あるといわれ、武人百濟王としての性質とも関係があるらしく必勝祈願、旅行安泰祈願などへの効果が高いと言われているようです。

3-2.神社と新羅方面

新羅神社は、読み方は「しんらじんじゃ」であり「しらぎじんじゃ」とは呼びません。新羅神社と書いて「しらぎじんじゃ」と呼ぶところも確かにありますがこの神社ではありません。創建時期は不明です。古代の朝鮮半島に存在した新羅の国に由来するとされます。

奈良時代の前期に、この多治見市の場所辺りには新羅系の氏族が移住してきており、新羅系氏族の祖先神を祀ったのがこの神社の発端とされます。いわゆる、王族と直接関係があったかどうか分かりませんが、経過から当時の状況の概略を考えると、直説関係はなかった可能性もあったと思われます。

むしろ産土神として、長く祀られてきたと思われます。新羅神社は多治見市を含めたその辺りの地域の一族であった氏族であるから祖先神というのを祀ったと云われているようです。 つまりその氏族の祖先にあたる存在を神として祀ったということでしょう。一族とは言うまでもなく、新羅関係の一族であると言えるでしょう。

新羅神社という名称を見てもそれは理解できるでしょう。 換言すれば多治見市の関係の一族の地域神とも言えるかもしれません。それ故、多治見の神様を祀ったということになるでしょう。名称も八王子神と云います。室町時代に下っていくつかの神が合祀されたようです。 しかし、鎌倉時代以降は、八幡神が合祀されているようです。

この新羅の氏族は、時の天皇、後醍醐天皇の味方側に付き、挙兵を計画した経緯があるようですが、失敗に終わりその後、衰退していったと言われています。 しかしながら、室町時代には素戔嗚尊が合祀されているようです。明治以降も様々な合祀が行われ、その後は比較的繁栄の道を辿って行ったと云われています。

昔から息災、家内安全や、安産祈願、長寿祈願に効果があると言われています。

3-3.神社と高句麗方面

高麗神社は高麗王若光(こまのこしきじゃっこう)をお祀りした神社として有名です。この高麗王若光の「王」(「こしき」と読みます。)と云う文字は王様の意味を持ちます。

しかし、これは外国の王族に与えられると云う意味です。 そういう意味では前述の百濟王神社の話と重なるような気がします。朝鮮半島にかつて存在した高句麗の国と関係があるとされます。

紀元668年に唐と新羅に制圧され生き延びて日本に渡って住み始めたといわれています。紀元703年にはその若光(じゃっこう)が朝廷から王の姓を受けたと云われています。 紀元716年には高句麗の人々を朝廷は認可して正式に居住させました。高句麗郡の始まりです。

ではなぜ高句麗(こうくり)のことを高麗(こま)と呼ぶのでしょうか。

それは高句麗の「句」が将棋の駒の「駒」と同じだから、つまり、「句」は「駒」の略字であるということだそうです。ここから高句麗が高麗と言われるようになったようです。

しかし、これ以外にも説はあります。例えば、高句麗の「高」という字は 「大きい」と云う意味だったという説や、また高句麗の「高」という字は「神聖な」という意味であったといった説もあります。

いずれにせよ、これは彼らが高麗地域の氏族、いわゆるその地域の氏族長として就任して活躍をしたところから始まっているのかもしれません。 多くの政治関係者がここを参拝して出世の道を歩んで行ったという経緯があると伝えられているようです。

それ故、出世を望む人、いわゆる社会的な地位を築きたい人はこの神社を訪れて お願い事をすると良いとされているようです。 言い伝えとしてはそのようなものがあります。

勿論、それ以外の願い事もされているようです。安産年祝い、また、七五三、その他、成人祝いなども行なっています。しかし、無病息災などもお願いしても良いかと思われます。

4.神社とその土地の習わしは?

4-1.神社と祈願の決まりは?

何か特別な云われがない限り、特別な儀式がない限り、神社においては「こういった祈願をしてはいけない」といったものはあまりないようです。

4-2.神社と特色・個性のある伝承

その反面、「この神社にはこういうご利益があると昔から云われる」といった特色・個性のある伝承は、昨今パワースポットといわれている神社とその周辺の土地状況の背景に伺うことができる力、いうなればその土地柄が持っている神社パワーを今に伝える特色の1つなのかもしれません。

土地柄というわけですから、その土地土地により、それぞれ異なった伝承や特色があるということです。各神社の特色を知れば、その場のパワースポットの特色、その土地の特色を知ることができるでしょう。

5.おわりに

長い間伝えられてきた「○○に効果があるのではないか」といった薦められている神社での祈願内容はその神社の成り立ちや性格という区分で、その神社がどのように設立され発展してきたのか、といったこととも密接に関係があるかと感じます。

こうしたことを踏まえた上で祈願をしてみると普段何となく関わっていたパワースポットの意外な面を知ることができるかもしれません。

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