念流について2 念流剣術の会得!その時の状況は?

歴史・地理

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いかがおすごしでしょうか?

鵜戸神宮の本殿は日向灘に面した崖の中腹の洞窟の中にあり参拝には崖に沿ってある石段を下りていかねばならない。社伝によると神社の創建は約2000年前とされるが神話に登場する“海幸彦・山幸彦”が関わる伝承が今も伝えられている。

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1.はじめに

山幸彦は兄である海幸彦の釣り針を探しに龍宮に行き豊玉姫命と結ばれた。山幸彦の方は龍宮から戻り豊玉姫はこの鵜戸の洞窟内で神宮の主祭神を産みその産屋の痕跡に鵜戸神宮が建造されたらしい。

2.念流剣術の起こりはどのようなものと伝えられている?

2-1.念流と陰流とその発生地といわれる場所

それはそうと、鵜戸神宮は足利義満の時代に念阿弥慈音が「念流」を、又、室町時代には愛州移香斎が「陰流」をこの地において創始したと伝承される。つまりこの地は念流のみの始まりの地という訳ではなかったのである。

この為「剣法発祥之聖地」と呼ばれる。念阿弥慈音は奥州相馬で生まれ一遍上人の許しを受けて仏門に入った。しかしながら 5歳の時に殺された父の仇を討つ為に、自らすすんで剣の修業を始めた。

諸国修行を行った後に鵜戸神宮の洞窟に籠もり、夢で剣術の妙技を得たとされる。これが「念流」の誕生である。念阿弥慈音はその後還俗して故郷に戻る。そして父の仇討ちを完遂したと言われる。

一方で伊勢の愛洲移香斎久忠はどうであったであろうか。彼は幼い頃から天才剣士として名を馳せていた様だ。 修行の為諸国を行脚し、京都で住吉流の剣術家と試合をするが、その時は敗北を経験する。

2-2.念流は集村の仏道修行にて、陰流は洞窟の神社内にて、鍛錬中に会得?

36歳の時に日向の鵜戸神宮に着き、洞窟の神殿に籠もり、剣の奥義を悟ったとされる。これが「陰流」の誕生である。どちらも洞窟に入って奥義を会得したようだが、修行をしながらも同時に瞑想を行い

自身の剣を振り返る行為を欠かさなかったのだろうか。後に念流も陰流も、その後様々な流派に受け継がれた。その他、群馬の地で開かれたとされる念流は長野県下伊那郡阿智村にもその伝承があるようだ。

それについては「念流」を開いた念阿弥慈恩が、この阿智村の地で仏道と武道の修行を重ね、摩利支天を祀って奥義を悟り「念流」という剣の流派を開眼したという。群馬と長野は地理的にも近いので似たような伝承が伝わるものなのかもしれない。

さて、念流系はいろいろな分派を経てきているが、大元の念流の他に、奥山念流、念首座流、荒川念流(未来記念流)、家川念流、馬庭念流、本間念流、奥宮念流などがある。この大元の念流は中条流から一刀流等への展開にも関わりがあるとされる。

また、念流は剣術のみではなく鎖鎌術にもその技を伸ばしている。鎌で斬ったり,分銅を投げたりして敵に相対する事は古流の剣術に並列して存在する他流の各鎖鎌術の存在にもよく見られる。

3.おわりに

念流の関係・流れを汲むといわれる一心流鎖鎌術という流派には表技と裏技が伝承されている様だ。又、前述した中に中条流とあるが、これは念流の開祖、念阿弥慈恩の弟子筋が開いた流派という伝承がある様だ。

室町時代初期時に創始された流派で、念流からの派生といわれる。そしてその歴史も古いことから念流、神道流、陰流各流派にこの中条流を加えて「兵法四大源流」と言う場合もあり、興味深い。

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