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いかがおすごしでしょうか?
尚、「中条流」は、南北朝時代に勃興し、剣法の大家の1つでもあるとされ、もう一つは念阿弥慈恩の開いた「念流」であるが、この「念流」を源流としない見解もある。
1.はじめに
後でもこの兵法の源流の捉え方について少し述べるつもりだがこの「中条流」から「冨田流」が派生し、「一刀流」へと展開を見せた。ところで宮本武蔵で有名な佐々木小次郎の「巌流」はこの剣の流派の流れを汲でいるとされる。
2.念流剣術以外とその剣術系統は?
2-1.念流剣術以外というと…?
諸説はあるようだが。その、一刀流という有名な流派であるが、戦国時代末期時、念流系の鐘捲(かねまき)流の経緯に関係がある伊藤一刀斎が創始した流派と言われる。その正統の弟子の小野忠明が徳川将軍家剣術指南役になったことから、
この一刀流流派は繁栄したと言われる。尚、余談だが先の念流系の鐘捲流で有名な鐘捲自斎(かねまきじさい)は中条流を学んだ後に自身の鐘捲流を編み出していったといわれる。話は元に戻るが、
江戸末期に千葉周作が創始した北辰一刀流はこの一刀流の派生として有名である。又、将軍家剣道指南というと柳生新陰流を思い出す人は多いだろう。この流派は、戦国時代に念流や新当流(神道流)等の諸流派の奥義を極めた上泉伊勢守信綱が、
柳生宗厳(あの柳生石舟斎)に「無刀取り」の技の課題を課したのはよく聞く話であろう。この様な流れで柳生新陰流は作られていったと言う。その前の新陰流はどういう経緯で作られていったのだろうか。
詳しく言うと柳生氏の『影目録』という文献からは、陰流から「奇妙」を抽出していったとある。そして「転(まろばし)」という理法を導き出したらしく、この技は相手の仕掛けた技に対して転じて勝つことを意味し、
まず構えずに「無形の位」の姿勢で臨み、後に相手に最初に技を仕掛けさせ、それに対処して「後の先」を取る技らしい。そして、上泉伊勢守信綱は陰流を基にした新しい陰流を編み出し「新陰流」を作ったと言われる。
2-2.念流剣術と中条流
さて、前述した中条流の話しついでに、中条流と関係ある流派として創始されたと言われる「京八流」について記しておこう。十二世紀の京の一条堀川にいた陰陽師と言われる鬼一法眼が鞍馬山の僧八人に授けた事から始まるといい
鞍馬流の流れを汲むともいわれる。しかし鞍馬流自体がその伝承の資料つき焼失してしまっているらしくよく解らない流派である。源義経が幼少時稽古をしていた剣術の流派に相当及び関係が深いらしいがやはり詳細は不明である様だ。
ところで兵法の四大源流の話しが前に出たが剣術を体系化して流派を初めて成立させたのが、念阿弥慈音の念流であるとされる。そして、飯篠長威斎家直の天真正伝香取神道流、愛洲移香斎久忠の陰流、
中条兵庫頭長秀の中条流という三大流派が生まれるという意見もあり、このように考えると念流、神道流、陰流という区分け以外に、念流+神道流、陰流、中条流という1+3の流派という見方も可能で、なかなか面白い。さて新陰流の話がでたので、
その前段階の陰流の愛洲伊香(あいすいこう)とはどのような人物であったのだろうか。この人物も独自の修行の中で瞑想にも時間を費やし新たな「陰流」という剣の流派を編み出した人物であった様だが、伊勢国渡会郡南島あたりで生まれたとされ、
『念流伝書』という文献によると、念阿彌慈恩から秘奥を授かった内の一人とされている。猿神前の末孫が愛洲伊香となっているようだが、これだと三大源流の剣法というより、始めに念流ありきという印象を受ける。
3.おわりに
しかしながら、やはり念流の祖、鎌倉寿福寺の僧念阿弥慈音も、日向の鵜戸明神の岩窟に篭もり刀術の妙技を作ったとされ、こういった新しいものを生み出すには、やみくもに鍛えるばかりでなく、動くばかりでなく、
行動や修練を行いながらも何か静かに(といっても勿論怠惰や頓挫を容認していた訳ではないだろうが…)集中力を研ぎ澄ます場所や時間が必要なのかもしれない。ところで馬庭念流という流派を聞くが、
これはやはり念流の流れを受け継いでいるとされ、上州多胡郡馬庭(まにわ)村、つまり現在の群馬県高崎市の郷士、樋口又七郎定次(ひぐちまたしちろうさだつぐ)に念流の6代目の弟子友松六左衛門尉氏宗が諸国を旅している最中に当土地で巡り会い
1598年(慶長3)に唯、一人奥秘を相伝していると言われている。この定次が馬庭念流の祖として今日まで伝えられているとされる。
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