2015年5月兵庫県南あわじ市において幾つかの銅鐸が発見された。
銅鐸は、つり手の断面がひし形の「菱環鈕2式」と、両脇に飾りの板がついている「外縁付鈕1式」というものである。
高さは20センチメートルから30センチメートルのものであり、その内3組の6個は中に小型のものが入っている「入れ子」の状態のものであったという。
入れ子とは、ロシアのマトリョーシカ人形のようなものを想像してもらえると解りやすいかも知れない。
銅鐸の内部には「舌」(ぜつ)と呼ぶ、音をならす棒状のものがあり、舌と一緒に銅鐸が見つかるのは珍しいと言われているようだ。銅鐸を見つけたのは砂利関係の加工会社だそうだ。紀元前3世紀から2世紀ぐらいに鋳造された銅鐸のようで、
古式とよばれるものであるとされる。多くの出土確認の例を挙げると、40個近い加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)や25個近い大岩山遺跡(滋賀県野洲市)や15個近い桜ケ丘遺跡(神戸市)などが有名とされる。
松帆(まつほ)地区方面の南北約2キロメートルの海岸付近の田畑に埋まっていた可能性が高いと推測され。銅鐸の7個は「松帆銅鐸」と名付けられた。発見自体は数十年に1回の発見の割合の事例で、大変珍しいという。
写真で見るに発掘された銅鐸は青緑とも深みのある薄緑とも色彩がとれる美しい様相である。そもそも銅鐸とは、何のために作られたのだろうか。諸説あるが、今のところ豊作を祈る豊作用祭祀に扱われた傾向があるという意見が有力であり、
谷や山、しかも人里離れている場所に埋められている事例が多いが、理由は判然としていない。銅鐸の上の部分には「紐」(ちゅう)と呼ばれる取っ手のようなものが付いており、最初期は鳴らして扱う青銅器だったのが、
次第に見て扱う青銅器へと変化していったらしい。また、家畜の首に装着して鐘のような役目をもたせていたらしいという説もあるようだが、何れにせよ未だよく解っていない青銅器とされている。
銅鐸そのものは弥生時代に作られたという説が一般的であるが、紀元前2世紀から紀元2世紀の400年間に主によく鋳造、活躍したとされる。もともと打ち鳴らす為の道具で叩いて音を出していたらしいが、
銅鐸の様に下に口が開いていて鳴らすものは「鐘」と言い、「梵鐘」(ぼんしょう)のように胴体部分を叩いて鳴らして使用するものは痕跡の有無から出土例がないとされ墳丘墓の周囲濠部からの出土事例は一例あるものの、
古代の住居跡や墳墓から直接見つかったことはないとされる。また弥生時代の村落共同体が新たな支配権をもつ存在にその所有や統合が移行するときなど、つまり時代の変わり目など(他に例を挙げれば古墳時代への移行など)に
今まで村落で使われていた銅鐸を納付したり、また壊したりしていたらしいが、一部の破壊後の銅鐸が見つかる事例はこのことに由来している傾向にあるという。
これらの見方から個人の持ち物よりも、共同体の所有物として存在していたとされる考えもあり、未だ謎多き物体とされる。
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